メンバー列伝 リッチー・ブラックモア
この人なくしてハードロックは語れず。そしてロニーを「あのロニー」にした立役者

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1945年4月14日、英国サマセット州ウェストン・スーパー・メア生まれ。本名はRichard Hugh Blackmoreで、2歳の時にミドルセックス州に移住した。11歳でギターを始め、1年間クラシックギターのレッスンを受け経験が後の活動に役立つこととなる。
学校のバンドのヴァンパイアズ(のちにドミネーターズと名称変更)、地元ロンドンで評判だったサヴェージズ、アウトローズ、リーダーとしてワイルド・ワンズ、クルセイダーズなどを渡り歩き、時は60年代後半。ヘヴィなロックが世に出始めた時代であり、リッチーもついに自らの手でその代表格となるバンドを生み出した者の1人となった。これがDeep Purpleである。
Deep Purpleについてはすでに説明不要なほどであるが、リッチーはその第1期から第3期(68年~75年)まで在籍。脱退期間をはさんで、後述する再結成の時にも第5期から第7期(84年~93年)まで在籍した。70年の「In Rock」、72年の「Machine Head」は、ハードロックを語る上で避けては通れない歴史的な名盤である。
ロニー・ジェイムス・ディオとの出会いはこのDeep Purple在籍中のことだった。もともとパープルは当時のロニーのバンド、Elfと縁があった。72年のツアーでサポートに、Elfを起用したり、ベースのロジャー・グローヴァ―がElfの2作目『Carolina County Ball』のプロデューサーを務めたり、そこからロジャーのソロプロジェクトにロニーとミッキー・リー・ソウルが起用されたりといった具合である。Elfは74年には再度、パープルのサポートについている。
Deep Purpleでは「Stormbringer」(74年)の方向性をめぐってリッチー・ブラックモアとバンドの関係が食い違い始めた。その決定打のような形になったのがQuatermass(英国のプログレッシヴ・ロックバンド)の曲である「Black Sheep of the Family」のカバーをリッチーが提案したところ、ジョン・ロードが拒否したという一幕である。リッチーはこの曲にかえって情熱を燃やし、ツアー中の12月にElfのメンバーとともに同曲のカバーをレコーディング。ここで副産物のように生まれたのがのちにRitchie Blackmore's Rainbowの1作目に収録されることになるオリジナル曲「Sixtees Century Greensleeves」だった。なお件の「Black Sheep of the Family」も同じアルバムに収まっている。
1975年、Elfは自身の3作目「Trying to Burn the Sun」を、さらにまだリッチーのソロアルバムという位置にあった「Ritchie Blackmore's Rainbow」をレコーディングした。ここから4月のリッチー・ブラックモア脱退、5月のRitchie Blackmore's Rainbow始動となるのだが、そのいきさつはやや前後している。3月にElfは引き続きDeep Purpleのオープニングアクトとしてツアーに同行するが、パープルのメンバーが到着したホテルのまさに地下のスタジオでは「Ritchie Blackmore's Rainbow」が作られている真っ最中だったためである。
リッチーはソロバンドとして正式に活動を始めると、ただちにロニー以外のメンバーを全員解雇した。やがてRainbowはその歴史において「ハードロック史上特にメンバーチェンジの多いバンド」となるが、バンド開始からそれが通常だったのである。
新たにバンドに入ったのはコージー・パウエル(ドラム)、ジミー・ベイン(ベース)、トニー・カレイ(キーボード)の3人。のちに『三頭政治』と呼ばれるリッチー、ロニー、コージー時代の幕開けであった。2作目のアルバム「Rainbow Rising」は、クラシックの要素を取り入れたドラマチックな音楽と神話的な世界観が融合した名盤として現在でもなおハードロック/ヘヴィメタル史で語り継がれている。
3作目の「Long Live Rock'n'Roll」で再びメンバーは変わり、ジミー・ベインとトニー・カレイの代わりにボブ・デイズリー(ベース)とデイヴィッド・ストーン(キーボード)が加入した。もっとも、レコーディング中にはベースが決定していない状態だったため、リッチーがほぼ全てのベースパートを自身で弾いたという話もある。なおベースのジミー・ベインは80年代に入ってDIOに加入。脱退期間をはさんで2000年代にも在籍した。
Deep Purpleもロニー時代のRainbowもその音楽性でのちのヘヴィメタルに強い影響を与えており、奇しくもリッチーは中心人物だった2つのバンド両方でヘヴィメタルの元祖の地位を得たことになる。
この頃からリッチーは米国進出を狙ってポップ路線を目指すようになり、それがロニーの価値観と次第にずれていく。結局ロニーは
3枚目のアルバムを最後にRainbowを脱退、フロントマン不在状態だったBlack Sabbathに加入した。
一方のリッチー率いるRainbowはグラハム・ボネット(80年「Down to Earth」)、ジョー・リン・ターナー(81年「Difficult to Cure」、82年「Straight Between the Eyes」、83年「Bent out of Shape」とヴォーカルを変えつつ84年まで活動、再結成したDeep Purpleにリッチーが加入することでいったん解散した。なおリッチーは再結成Deep Purpleでは93年まで在籍するが、ほかのメンバーとの音楽性の相違などから再度脱退している。
ちなみに、この再結成Deep Purpleではイアン・ギラン(ヴォーカル)の脱退期間にジョー・リン・ターナーが正式なヴォーカルだった時期があり、他のメンバーも元Rainbowだったりしたため、さながらこちらも再結成Rainbowの様相を呈していた(ただし音楽性はさほどRainbow 的ではない)。
95年にはメンバーを一新してRainbowを再結成し、アルバム「Stranger in Us All」をリリースした。この時のヴォーカルはドゥギー・ホワイトである。この時の活動は2年で停止したが、2015年からRitchie Blackmore's Rainbow名義でのライブをたびたび行っている。ヴォーカルはロニー・ロメロ。
90年代からの主な活動はBlackmore's Nightで、婚約者から妻となったヴォーカルのキャンディス・ナイトとともに主にルネサンス期の音楽を土台にしたフォークロックプロジェクトを展開している。
ロニー・ジェイムス・ディオとの共演作:Ritchie Blackmore's Rainbow、Rainbow Rising、Long Live Rock'n'Roll
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